120周年記念ページ120th anniversary

三代目加藤安太郎夫人 加藤頴子さん

今から61年前の昭和33年、三代目加藤安太郎である加藤哲也氏と結婚。直ぐに自らも会社の仕事に携わり41年間勤め上げられました。
創業120年のうちの三分の一は関わってきたことになります。昭和から平成に渡る時代の大きな変化の中で、
三代目社長を支える妻として、嫁として、母として生き抜いてきた加藤頴子さんに、当時の事を振り返っていただきました。

加藤総業の前身である加藤安太郎商店はどのように誕生したのかご存知ですか

初代の加藤安太郎さんは鶴岡生まれの方でしたが酒田に移って本間家に勤め、帳簿を付ける役目をしていたそうです。
その後、金物商のお店を開いたと聞いています。
二代目は“勤吉”というお名前で、安太郎に改名して二代目加藤安太郎になりました。
そして主人の“哲也”が安太郎に改名して、三代目安太郎に就任したのです。

嫁いだ頃、会社はどのようでしたか

私が結婚したのは昭和33年。あの頃は11人くらいのお店でしたね。
茶の間のふすまを隔てたところが会社でしたから、人の声も電話の話も全部聞こえました。鍋、やかんなどの家庭用金物から、大小さまざまな建築資材を取り扱っていました。

二代目安太郎に先見の明があったのでしょう。セメント・ガラスにおいては小野田セメントと旭硝子の特約店になっていましたので、独占的に販売できていました。ですから朝7時になるとお客さんから「これから行くから店を開けてくれ!」と電話が入るんです。もうそこから仕事がスタートするんですよ。

精力的に働いていらしたのですね。

資材はすべて貨車で運ばれてきた時代でしたから、酒田駅でそれを受け取って会社に戻り、今度は別のトラックに積み直してお客様に納めます。
はじめはオート三輪車1台だったんですが、どんどんトラックも社員も増えていきました。
日本全体が高度経済成長にともなって建設業界急成長の時代になると、釘も針金もなかなかメーカーが持ってきてくれなくてね。
待ちきれなくって、私もトラックに乗って仙台まで取りに行った事もありました。

事務仕事は当時そろばんでしたので、手が腱鞘炎になるほど。そのうち主人が機械式計算機を手にいれてくれました。ものすごく重くて手動なんです。くるくるっと回してチンって鳴るの。それを一台もっていましたよ。

納品は酒田市内だったのですか

いえいえ、酒田も鶴岡も新庄も秋田の象潟・本荘・矢島も商圏でした。 会社に運送部というのを設けて専門の運転手を数人抱え配達していましたが、日中フル稼働しても配達しきれないんです。
ですから、夕方からは主人と私と二人でトラックに乗って、その日に出来なかった商品の配達や集金をしていました。
まだ子供が生まれる前でしたし、二人そりゃあ楽しかったです(笑)。

お二人仲がよろしかったんですね。馴れ初めはなんですか

お見合いです。お見合いの時、主人は歌舞伎の話をしてきたんです。じつは私も歌舞伎が大好きでしたから話が合ってね。
それでこの人!って決めました。主人と私は好きなものが一緒だったんです。
歌舞伎のほかにクラッシック・仏像・美術品も。大変な時も一緒でしたし、お互い言わなくても考えていることがわかってましたから。

子供さんが生まれてからはいかがでしたか

結婚して5年位たった頃に長男が産まれましたが、事務所は自宅と同じでしたから子どもを見ながら仕事ができました。
その後、二人の女の子と男の子がもう一人、全部で4人の子どもが生まれましたからますます忙しくなりました。
幼稚園のバスの送り迎えは社員がやってくれたり、みなさんにとても可愛がっていただきました。

昭和46年、新社屋に移転。

ますます忙しくなって社員も多くなりましたが、会社では全部終わることができずに帳簿やそろばんを箱に入れて家に持ち帰っていました。
子どもたちに夕御飯を食べさせながら、家で残業しないと、翌朝、社員がスムーズに仕事が始められませんから。
でもね、ご飯の支度が遅れても主人はなんにも文句はいわずに待っていてくれました。

仕入れも、売上も、支払いも全部把握してましたから、一年一年会社が大きくなるのがわかりました。
大変なこともいっぱいありましたが、いい経験が出来ました。今でも会社で働いていた頃の事を夢にみることがあります。

私は実家が鶴岡の銀座通りにある伊藤糸店で、根っからの商売人気質なのでしょうかね。
これまでいろいろ大変でしたけど辛いと思ったことはありません。主人のことも大好きでしたから(笑)楽しかったんです。

酒田大火のこと。

新井田川で火は止まりましたが、自宅や会社にも大きな火の粉が飛んでくるんです。
親類が本町に2~3軒ありましたので主人はそこから帰ってこなくて・・・でも、長男(聡氏)がしっかりしていてね。
ああしたほうがいい、こうしたほうがいいと言ってくれるんです。あの頃からあの子はしっかりしていました。

その後、お取引があるところもないところも、お見舞金を何百件と出しました。社員と手分けして配ってまわりました。
でも、そのあとの忙しかったこと!人手も少ないので材料があっても届ける人がいない状況でした。
あの時は社員も良く頑張りました。主人の「利益にはこだわらず」との思いで一生懸命でした。復興が第一でしたからね。

会社の今をご覧になってどう感じていらしゃいますか

時代に即した仕事を起こしたり、それはすごいと思います。私たちの代ではこのような形体は出来なかったと思います。
代替わりしないと会社の成長はありませんね。

もちろん今も会社は気にはなりますが、息子に任せていますし全然心配していません。
これからも続いていく会社と、日々忙しく仕事している息子を、哲也さんと一緒に楽しみながら眺めていきたいと思います。

失礼ですが、そのお年でスマホを使いこなしていらっしゃるのですね。

簡単スマホですよ。これで調べたり、コンサートを予約したり、孫たちとLINEしたり。
今この歳になりましたが、東京でもどこにも一人で行けることは幸せに思います。せっかく生きてるんですもの、楽しまないとね。

これまでの苦労を楽しみに変える力

常にご主人・家族・多くの社員に愛情を注いできた加藤頴子さん。
苦労を惜しまずに対応できたことは、とてもありがたいことと常に感謝の念をお持ちです。
リタイア後も、心を元気にする楽しみや好奇心をフルに発揮してエンジョイしておられるお姿に感銘いたしました。

四代目現社長加藤 聡さん

明治32年創業の加藤総業株式会社は今年(令和元年)で120周年を迎えました。
長い歴史を大切にしながら新しい事業にもチャレンジし続ける加藤社長にお話を伺いました。

今年創業120周年、おめでとうございます。

ありがとうございます。お取引先様からも素晴らしい長い歴史だと言っていただき大変ありがたいことだと思っています。
お客様やお取引先様から支えていただいて、ようやくここまできたのだという感謝の気持ちが大きいですね。

経営理念について

「全社員の物心両面の幸福を追求すると同時に地域社会の進歩発展に貢献すること」

代々我が社には「誠心誠意」という社訓があったんですよ。
でも、今から10年以上も前のことになりますが、京セラやKDDIを創業した稲盛和夫さんの経営塾「盛和塾庄内」に入塾し、 地域の皆さんと勉強をはじめるようになりました。そこでは「まず社員が一番はじめにくるのが大切。その次ぎは地域」との教えがありますが、それは両方とも加藤総業には欠くべからずのことです。
これを成し遂げる、根本にすえようと思いました。ですから、稲盛和夫さんが創設された京セラさんに習っています。

幼少期を振り返る

代々商売をしている家の長男に生まれてしまいましたからね。生まれた瞬間から跡継ぎとして育てられました。
生まれた頃は自宅は会社と兼ねていて酒田市本町にありました。加藤安太郎商店ですね。
今でいうホームセンタープラス建築資材卸売業というイメージなんですが、たくさんの方が出入りしていましたね。
昔のお店のように土間があって、店を通って茶の間に行くわけなので、「ただいま」と帰ると、社員の皆さんが「おかえり」と言ってくれるような感じです。父が座る椅子の後ろを開けると我が家の茶の間になっていまして、その部屋は家の真ん中だったので窓もなく昼間でも電気を灯していました。小さい時は配達のトラックに乗っけてもらったり、商品を並べてトンネルにして遊んだり。会社というよりお店ですね。

小学校四年生頃に、会社と自宅を移転して加藤総業株式会社に変わりました。今思うと、大きな倉庫を建てましたから、父の時代から、より卸売り機能と建設業のお客様に対するサービスが向上していったのだと思います。

三菱マテリアル時代

社会人として基礎を作ってくれたのは、間違いなく大学卒業後に入社した三菱マテリアル(株)での10年間です。
そこには、人的レベル、マネジメントレベルが高くて、学歴だけではなく様々な方面で優秀な方が沢山いらっしゃいました。
そんな中で、社会人としてのルールを教えていただき、いい経験をしたと思います。

加藤総業では当社のマネジメントがありますが、社内教育は大切です。当社も教育にはもう少し力を注いでいきたいと思います。

再生可能エネルギーをはじめたきっかけ

私が酒田に戻ってきた平成7年頃から徐々に景気が落ち込み、建設業界内も倒産する会社が出てきました。 これから先、建設業は無くなりはしないけれど建設業にばかり重きを置くのはどうなのだろう、と考えるようになりました。

と言っても、突然飲食業に手を出して転機を図るのは無理ですからね。 こういう転機を「新規事業で飛び石を打つ」と言うのですが、稲盛塾長はいつも「飛び石は絶対に打つな。隣に広げていきなさい」とおっしゃるのです。

そんな時、住友商事さんが酒田北港の海で洋上風力発電をはじめたのです。酒田は風が強いという事は生まれてこの方身に染みていますよね。 でも発電で利益が出るのだろうか・・・とおもいみていたのです。

しかしそんな頃、風力発電事業を一緒に取り組む地元企業を探しておられる大手企業さんから、当社にお声がかかりました。 「パートナー企業さんがいたこと」「酒田は風が強いという地域性」「風車建設は当社の事業にとても関連性があったこと」 この複合的な背景を考え風力発電を決めました。

「不易流行」について

松尾芭蕉の俳諧で「不易流行」があります。守っていかなければならない事、新しく変えていくものが、 渾然一体となって物事が進んでいくという意味で、物事の本質を言っておられると思います。
我が社にもちょっとだけ「不易流行」があったから120年も続いてきたのかもしれません。
「不易流行」はこれからの加藤総業のあるべき姿を象徴していると思います。

この額は、三十六代木村庄之助さんに書いていただいたものです。取引先グループの方に頂戴したのですが、大変嬉しいものをいただきました。

未来への展望

これまで120年やってきた本業をこれからも大切にしていくのが第一。ここから大きく離れていくことはありません。
再生可能エネルギーは新規のビジネスですが、それでも、もう20年近く経過しました。極めて会社の本業に近くなっています。

従来からの取引先のお客様を大切にしていくビジネスをしっかり基礎に置きながら、 再生可能エネルギーなど時代にマッチした新しいビジネスを探し続けていくことが我々の仕事なのだと思います。

ご趣味はクラシック音楽とお聞きしましたが

私が音楽を好きになったのはおふくろの影響です。小学校の五年生にトランペット鼓隊でトランペットに出会い、 中学・高校は吹奏楽部。大学ではオーケストラでとずっとトランペットを吹いていました。その頃にご縁のあった方とは今でも繋がりがあります。
それと、ご縁があって山形交響楽団の役員をやらせていただいてまして、 酒田でも年に一度大きな演奏会が開かれる時には実行委員長を仰せつかります。微力ですが応援していきたいと思います。
私自身はもうトランペットは吹きませんが、音楽にはずっと携わっていきたいですね。

いつの時代にも通じる変わらない価値

会社の信用と伝統を守りながら、将来に渡って時代の流れを常にキャッチし取り組んでいらっしゃる姿勢は、121年目を踏み出し、存続していく120年の底力ではないでしょうか。
会社というオーケストラを率いてタクトを振る四代目加藤社長は、地元人に愛される交響曲を奏でています。

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